うーん、やっぱ難しいよね。漫画を実写化するのは。
映画になった時点で別の作品だと理性では理解しているんだけど原作をすでに読んでしまっている以上比較してしまうのは仕方のない心理なので、だからどうしたってこれは「原作好きから見たレビュー」にしかならないわけでそこのところはご了承を。
結論から言うと面白くないということもない。原作のボリュームを映画サイズにまとめたらこうなるのかなとも思う。
しかし改めてこの作品の魅力の大部分が小畑健の絵と大場つぐみのネームにあることを認識。ときにギャグにすら見える神がかった筆致とくどいまでの長セリフを読むのが快感だったのだ。
映画向きでないモノローグのカットは『デスノート』という作品の持ち味を大幅に減らしている。原作の心理描写のやりとりは圧倒的な物量による有無を言わさぬ説得力があった。原作を象徴するセリフを引用すると……
「ムキになって勝ちにいくとキラっぽい…か? だからといってわざと負ければムキになって勝ちにいくとキラっぽいと思われるからわざと負けるところがまたキラっぽい――だろ? 結局同じこと!」
なんとまどろっこしいことか。ここまでやれば天才同士の戦いにも見えるさ。こんなの映画館でやれとは言わないが。
説明セリフの大半をカットすることによって映画らしくはなったが、あまり頭脳戦を繰り広げているようには見えなくなってしまった。一応原作のイベントは一通りこなしてるんだけど思考の過程をすっ飛ばして結果だけを出されても凄いと実感できない。格闘漫画やスポーツ漫画、料理漫画でも一番重要なのは実況役だったり解説役だったりするのだ。
役者について。自分は映画やドラマを見る人がまず役者を気にする心理がよくわからない。演技もものすごく良いかったりものすごく悪かったりするときくらいしか気にならない。
だから原作と違い気味な月(ライト)もなんとなく受け入れられたりするんだがLは残念だった。中途半端なコスプレみたいに見えるのが原因だろう。「かっこよくないがかっこいい」という所まで達していない。
イメージ通りだったのはワタリ。
あとリュークが漫画そっくり(ジョークのつもりですココ)。
[以下ネタバレ]
とりあえず言いたい事をキャラクター別にまとめてみる。
月:街中でノートを使ったりキラに賛同してみせたり軽率と見える行動が目立つ。キャラクター付けとして「新世界の神になる」は削ってはいけないシーンだったのではないか。序盤で法で裁けない悪を知るところは制限された時間内で動機を明確にするためによかったと思う。賭けバスケットをやるくらいならテニスやれ。
L:推理の過程がごっそり抜けているので根拠のない確信で行動しているように見える。
詩織を死なせたのはLのポカにしか見えない。
ラストで月に「あなたの力を貸してください」というような事を言うんだけどまだ月は何の推理力も提示してないんだが……
リューク:リュークは間違っても「愛」なんて言わない。
南空ナオミ:もっとも不幸な改変をされた人。彼女は真相に近づいてはいけなかった。なぜなら月が簡単にボロを出す奴に見えるから(実際原作でもギリギリだったのだが)。月に名乗った名前が偽名であることをナオミから明かすのもいかんし月が本名を知る手段もかけ引きとは遠いところにある。
詩織:要らなかったな、この子。
ミサ:割とどうでもいいので好きなように変えていい。
削られたのが残念でならないのは月が大学に合格した直後にLに「私はLです」って言われるシーン。Lの大胆さと計算深さが伺える。原作ではこのへんが一番好きだ。月の「やられた!」とか最高ですな。
あと本当にどうでもいいことだけどデスノートに書く犯罪者の名前が大きすぎ。一人あたりに2、3行使った上に1行について1人だけ。しかも斜め書きだったりしてノートの空白率はさらに上がる。そんなに厚くもないノートの使い方としてはあまりにも贅沢。画面的にそうした方が映えるというのはわかるんだけどさ。魅上のびっしりとした書き込みと比べてしまう。これならジェバンニじゃなくても一晩でやってくれそう。2人とも映画には出ないだろうけど。
後編は全く別物の展開になるはずだから割り切って楽しめるかもしれない。